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長崎地方裁判所佐世保支部 事件番号不詳〔1〕 判決

主文

被告人森岡浅治、同原田末利、同池田実を各懲役七年に同力久富男を懲役二年に同長井末広を懲役一年六月に処する。

右被告人池田実を除く尓余の各被告人に対しては、未決勾留日中各百二十日を、被告人池田実に対して同九十日を右各本刑に算入する。

押収してある竹槍八本(証第五乃至第九号、第十八号及び第二十号)手工用小刀六本(証第一、第二、第十、第十二ノ一、二、及び第十七号)及び庖丁六本(証第三、第四、第十三、第十六ノ一、及び二号)は孰れも之を没収する。

理由

(一)経歴及び身分関係

被告人森岡浅治は昭和十四年土木建築下請業を始め、同十九年四月佐世保市に来り、森岡組の名を以て土木建築請負業に従事している者、被告人原田末利は小学校卒業後養鶏業、客馬車引、大工徒弟として働き昭和八年佐世保市に来り、カフエー営業、塗装請負業等を経て現在木工所を経営し、家具製造を業としている者、被告人池田実は佐世保中学校を中途退学し、海軍工廠の工員をした後、横浜で土木建築人夫となり、昭和二十年佐世保に帰つて、同年九月頃から池田組の名を以て土木建築請負業に従事している者、同長井末広は右森岡組事森岡浅治の配下、同力久富男は同市戸尾町所在土木建築請負業石井組事石井敏夫の配下で、孰れも夫々肩書各職業に従事するか、又は仕事がない為無為徒食している者で、右原田、森岡、池田竝に石井の四名は、その職業の関係上相互に所謂兄弟分として交際し、尓余の者等は夫々自己が配下として世話になつている右四名等の各雇主に対し、所謂親分子分として恩義を感じている者である。

(二)動機、原因

ところで、昭和二十三年一月十九日と二十日の両日前記石井敏夫が主催し、同市京坪町大劇で、長谷川一夫一座の演劇を興行したが、その際右森岡は、石井の兄弟分で当時若松市から来ていた岩野暢等と共に右興行を応援し、同劇場の木戸整理等に従事した処、初日開演に当り、右岩野が入場券を二重売して其の代金を自己の懐ろにごまかしたとの理由で、同人に注意した事から同人と喧嘩口論となり、森岡は左眼下を殴打され岩野は森岡に組敷かれたが、小島雄次郞の仲裁で其の場はどうにか収まつたものの、岩野は屈辱を感じて直ちに若松市在住の配下の者を呼び寄せて復讐の気配を見せ、森岡も之に対抗し、復讐に備えて手工用小刀八本を購入し其の配下に配る等、不穏の形勢に立ち至つたので、同月二十一日右森岡の兄弟分である池田実外原田末利、石井敏夫等が仲裁して右池田方で一応仲直りが出来た。

然し右仲直りの席に、岩野は喧嘩仕度の上に商人コートを着る等礼を失した服装で臨み、腹巻の下には拳銃を用意している様な口吻を洩らし、尚一旦仲直りが出来た後も釈然とせず、丁度其の場に訪ねて来た配下の者に「若い者はどうした」など尋ねる等一向和解した様子が見えないので、森岡始め池田、原田、石井等も不審に思い、又その配下の者等は、右岩野が旅の者であり乍ら普段から態度が横柄なので癪に触つていた事とて、右の様な放言に内心穏やかでなく感じていた。

更に前記の様な岩野の態度から、同人が拳銃を持つているのではないかと懸念した池田は、右の旨を警察に申告した為、二十一日夜岩野一派の者八名は銃砲等不法所持の嫌疑で佐世保警察署に検挙され、翌二十二日嫌疑が晴れて一同釈放されたので森岡組、池田組、石井組等の仲間は岩野一派の者からの仕返しを予期して警戒を怠らず、更にその頃岩野一派に於ては、若松市から子分三十六名位を呼び寄せて市内日宇町等に待機させ、喧嘩費用十万円を調達して森岡、池田の両名は勿論、その兄弟分の関係にある原田、石井等にも復讐するとの企てがあるやの風説を聞知し、池田は難を避けて原田と共に同月二十三日朝崎戸の方に赴いたがその留守中佐世保に於ては、仲間の人数の手薄なのを感じた森岡は、同日午後、配下の長井を前記城水組の小谷の許に遣わし、岩野方から襲われた際には配下の者を味方に貸してくれる様応援方を依頼し更に同日夕刻、大牟田市花園町四十九番地寺内忠雄等に対し、至急電報を打つて其の配下の来援を求め、岩野一派の復讐に備えた。

ところが前同日午後八時過頃、右森岡の配下福毛義之が、森岡の身を案じ誤信した結果、同市潮見町道路上で前記岩野に対し、手工用小刀でその左胸部を突き刺し重傷を与えた為、右岩野は市内島瀬町黒川外科医院に入院するようになり、茲に森岡及び池田は、度重なる屈辱に憤慨した岩野及びその兄貴分古賀登(通称姫田、又姫野とも誤称されている)等一味の者から深く恨を受けるに至り相互の感情は益々尖鋭化して来たので、森岡、石井の両名は頻りに相往来して協議し、更に石井は崎戸に居る池田、原田等にも電話で連絡してその指示を受け、茲に四名は意思相通じ、岩野一派との喧嘩を決意して積極的な態度に出で、森岡は二十四日、配下の川口を再び前記城水組に遣わして岩野派を襲撃する際に於ける応援を依頼させ、又当時黒川医院に通つていた市内山県町金竜の葉子事柳井敬子に依頼して、同病院内に於ける岩野方の動静を探らせる等、動々準備を整え、尚前記打電に応じて大牟田市からは、寺内忠雄及び相被告人渡辺安雄、鳥井政人、馬場昭敏外川崎光雄、豊永昭二等十数名が二十四日夕刻佐世保市に到着、森岡方を訪ねて来たので、同夜之を石井方に案内して同人に面接させ、石井は崎戸の池田、原田両名の帰来を促し、且つ既に事情を知悉していた配下の者等に、岩野方襲撃の企てを告げる等機の到るのを待つていた。

(三)犯罪事実

そこで昭和二十三年一月二十五日午前十時過頃、前記石井方住居に同人外配下の者及び大牟田からの来援者等が集合し、更に同刻頃崎戸から帰つて来た池田、原田等の両名をも加え、尚小島雄次郞をも呼んで右石井を中心に、岩野方からの襲撃を俟つて之に応ずるか、機先を制して襲撃するかにつき議論を闘したが、小島等の慰撫もあつてその場では結局謀議が纒らず、後刻池田方に集合すべき事をその配下の者等にも順次伝えさせて一旦分散し、同日午後二時頃から池田方には、池田、原田森岡、石井及びその配下の者や、大牟田からの来援者等終始出入して飮酒したが、此の間池田は同人方人夫に命じ青竹を以て竹槍十数本を作り用意させ、同日午後六時過頃再び同人方で右石井及び被告人原田、森岡、池田等は岩野派の襲撃を邀えるよりは寧ろその配下の者を連合して、相手方の機先を制し黒川医院を不意に襲撃して頭領株の岩野及び古賀を殺害し、その他一味の者を傷害すべき事を協議決定し、以て後記騒擾の首魁となり、更に右石井配下の主位にある(所謂兄貴分の)被告人吉原、力久、森岡の配下中右同様な地位にある被告人木下を始め、その頃続々集合して来た米山、田村、中尾、田中を除く残余の被告人等その他の配下の者二十数名に対し右の企図を告げた処、同被告人等も各自之を諒承し、原田の音頭により全員拍手し又は乾杯して大いに気勢を挙げ、尚右終了後出発の際池田方に駈けつけた米山善郞、田村勇、中尾仁等の被告人も前記襲撃の事情を聞知してその企図を諒承し、相互に意思を通じて共謀した上、各自竹槍(証第五乃至第九号、第十八号第二十号)手工用小刀(証第一、第二、第十、第十二ノ一及び二、第十七号)庖丁(証第三、第四、第十三、第十六ノ一及び二号)或は拳銃(実弾を装填した)(証第十四、第十五号)等を携え、又は素手で同夜七時過頃から陸続池田方を出発し、七時半頃前記黒川外科医院の邸内に殺到侵入し、内十四、五名は土足のまま屋内に乱入して、後記の如く、古賀登に対し殺意を以て暴行を加えたが、その右側胸部、右側腰部、臀部に治療約三週間を要する各刺創を与えたに止まり殺害の目的を遂げず、岩野暢を拳銃で狙撃したが操法未熟の為に不発に終つて殺害の目的を遂げず、その他岩野甚太に対し頭頂部裂創左前膊部刺創等治療約十日間を要する傷害、河野重臣に対し右上膊部刺創等治療約四週間を要する傷害、中西明に対し頭部打撲傷、右肩胛下部擦過傷等の傷害を与え、以て騒擾を為し、急報により附近の――消防署員等が駈けつけた為、約十五分の後同所を引き上げたものであるが、右騒擾に於て

一、今村一及び豊永昭二は相前後して右病院内に侵入し、二号室前廊下に於て岩野暢が奥の方に逃げようとするのを認めたので、共同して之を射殺すべく、今村は豊永が携えていた拳銃(証第十四号及び第十五号)を借り受けてその後を追い、奥四号室の窓際に居た右岩野をねらつて、外庭から窓越しに引金を引いたが、操法未熟の為不発に終り、その間に岩野が逃走した為その目的を遂げず(二、三、四項被告人中尾仁外二名の犯罪事実は省略する。)

五、被告人木下秀男、同園田初一、同力久富男、同松田満、同長井末広、同吉田稔、同八谷惣一、同武内賢之及び同田村勇は、竹槍、手工用小刀、木刀等を携えて右病院の邸内又は屋内に侵入し、以て前記騒擾に附和随行し

たものである。

(証拠説明)

(一)判示冒頭の事実中

(イ)被告人等の各経歴については

一、各被告人等の当公廷に於ける判示に照応する各供述

(ロ)同じく身分関係については

一、被告人森岡浅治に対する検事の昭和二十三年二月二日附聴取書中同人の供述として「私の子分は木下、長井、松田、川口等の人夫が居り鳶職等に従事している。本年一月十九日、二十日大劇で、長谷川一夫一座の興行を石井がやつたので、自分や池田、原田等は兄弟分の関係で之に応援し」云々の記載

一、被告人原田末利に対する検事の同年二月三日附聴取書中同人の供述として「本年一月十九日大劇の興行の際、之を石井が引受けたが、当時石井は仕事もなく困つていたので、自分や池田、小島等が兄弟分の関係で前金十三万円を調達してやり、森岡は出資関係はなかつたが、兄弟分の誼みで私共と共に応援した」旨の記載

一、被告人吉原健一……(省略)

一、被告人中尾仁……(省略)

(二)動機、原因の事実中

(イ)森岡浅治と岩野暢の大劇に於ける喧嘩については

一、被告人森岡浅治の当公廷における判示同旨の供述

(ロ)右喧嘩直後に於ける岩野竝に森岡の態度については

一、今村一に対する検察事務官の昭和二十三年一月二十九日附聴取書中同人の供述として「翌二十日の晩大劇で石井の若い者から、岩野が若松に電話をかけて配下の若い者十二、三名を呼び寄せていると話しているのを聞き、又その頃大劇に、岩野の呼び寄せた若い者四、五名が玄関前に立つているのを実際に自分も見た」旨の記載

一、被告人森岡浅治に対する検事の前記聴取書中同人の供述として「福毛の兇器は自分が千円やつて同人に八本買はせた鞘付ナイフの一本であるが、それは岩野派から仕かけられた時の用心の為護身用として買はせ、私以下若い者に一本づつ渡していたものである」旨の記載

一、被告人長井末広に対する司法警察官警部代理の第二回訊問調書中同人の供述として「一月二十日午後七時頃森岡方に行つた処、福毛が手工用ナイフを持つて居り八本もあつたので、喧嘩の用意に買つて来たものと直感し、その中から二本取つて内一本を大劇で木下に渡した」旨の記載

一、被告人木下秀男に対する司法警察官の訊問調書中同人の供述として「自分の所持していた小刀は一月二十日晩大劇で、森岡親分が私方の長井に持たせて用心の為に持つて居れと言つて渡された品物であつて、他の子分も其の晩全部親分から貰つているのである」旨の記載

ハ、右両名の仲直りの模様については

一、被告人森岡、同池田両名の当公廷に於ける判示と同趣旨の各供述

(ニ)岩野一派の検挙の事実については

一、被告人池田の当公廷における判示と同趣旨の供述

(ホ)岩野一派の復讐準備の説については

一、被告人等の当公廷における判示に照応する各供述

一、被告人森岡浅治に対する検事の前記聴取書中同人の「岩野等は二十二日も尚佐世保に滞在し、石井の話では岩野等が拳銃密告の事で池田を恨み、私と池田とを殺すと云い、原田も石井もその後押しをしていると疑つて石井を最後にやるといふ形勢で、尚岩野は日宇の方に二、三十人子分を集めて待機している情報があるとの事で、自分は真に右の様な事情と思い充分警戒していた。尚石井の姉の話しで、姫野が小野徳一から十万円の喧嘩資金を借りた由の話を石井から聞いた」旨の供述記載

一、被告人吉田稔に対する検事の昭和二十三年一月二十九日附聴取書中、同人の「岩野方では森岡組に復讐すると同時に、その兄弟分である石井組、池田組の者も皆潰してしまふ計劃で、三十名位若松から子分を呼んで日宇に待機させているとの情報が石井組にも入つた事を、石井組で聞いた」旨の供述記載

(ヘ)岩野一派釈放後に於ける佐世保組の動静については

一、被告人池田、原田の当公判廷における、各関係部分につき判示と同趣旨の各供述

一、被告人米山善郞に対する検事の昭和二十三年一月二十九日附聴取書中、同人の「二十二日夕方岩野達が釈放された事を聞いた。同人等はそのまま帰るとも又警察初め小島一家をやつつけるとも話が出てゐた、翌二十三日昼迄に、森岡は二、三回石井方に来り、石井親方と二階で話したが、自分は階下に居た為その内容は分らなかつたけれども、森岡の帰宅後石井から森岡組がやつても手出しはするなと何度も注意があつたので森岡組と岩野等の間に喧嘩か何かあるなといふ事が分つた」

旨の供述記載

一、前川ハツヨに対する検察事務官の聴取書中、同人の「二十二日原田から誘われ、翌二十三日朝池田が、私にも同行せよと言ふので、私二人と原田及び今一人の四人で市営棧橋から午前十時発の船に乗り崎戸にいつたが、私達は別に崎戸に用があつたわけではなくその時の話では、岩野と森岡との間で未だ奇麗に清算されずごたごたしていて何か事件が起りそうだから、一時身をかわす為に行くことになつた様だ」との旨の供述記載

一、被告人長井末広に対する検事の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「二十三日午後三時頃、森岡から頼まれ、岩野の方から仕かけて来るかも判らぬから若い者を貸してくれる様、城水組の小谷さんに伝えに行つた」旨の供述記載

一、上川善次郞に対する検察事務官の同年二月一日附聴書中、同人の「一月二十三日頃森岡組の長井と松田が来て、先日大劇で喧嘩をした岩野の応援に若松から日宇に三十人位、佐世保に十五人位来ているが、もし大きな喧嘩になつた時は加勢をしてくれ、といふ様な事を話していた」旨の供述記載

一、被告人森岡浅治に対する検事の前記聴取書中、同人の「私は大牟田の寺内忠雄に電報でスグ人頼ムと依頼した」旨の供述記載

一、昭和二十三年二月三日午後零時五十分検事大坂盛夫の受話した佐世保駅長からの「電文照会の件」と題する電話聴取書中「一月二十三日午後五時二十分佐世保市若葉町二七〇森岡浅治から大牟田市花園町四九テラウチタダオ(一六一号)同市大正町ナカムラヨシオ(一六〇号)に宛て「スグヒトタノムモリ」の同文至急電報を受付け、同午後五時五十分発信した、尚右発信人(森岡)から二十三日より二十六日迄の間右の外発信された電報はない」旨の記載

一、被告人馬場昭敏に対する検察事務官の同年二月一日附聴取書中、同人の「自分は本年一月二十四日午前十時頃、豊永昭二と二人で大牟田市上官通りを歩いている時、寺内組の川崎光雄と出会い、同人が、佐世保の森岡組から寺内組に電報が来ているが何か事件が起つている様だが、お前達も来ないかと二人を誘つた」旨の供述記載

(ト)福毛義之の岩野暢刺傷事件については

一、被告人森岡浅治の当公廷における判示と同趣旨の供述

一、岩野暢に対する検事の同年一月二十七日附聴書中、同人の「自分は今月二十三日森岡の若い者に左胸部を刺されて治療中である」旨の供述記載

一、古賀登に対する検事の同年二月十二日附聴取書中、同人の「自分が二十二日佐世保に来た時、岩野暢等は佐世保署に検束されて居たが、翌日釈放されてから聞くと、池田実の無実の密告であることが分り旅の者に対する卑怯な態度に私共は立腹した。その頃二十三日岩野が森岡の若い者に刺され黒川医院に入院したので、飽くまでも旅の者をいためつける森岡に対しては勿論、原田も之を煽動しているといふ噂があり、尚釈放後自分達が飮んでいる時、森岡、石井等の若い者十四、五名が見張りをしているので、森岡、池田、原田、石井等全部が相手であると考え、場合によつては同人等全部に対し一喧嘩せねばならぬと思い、私一人でもその親分等をやつつけてしまい度いと考えた位で、憤慨に堪えなかつた」旨の供述記載

(チ)森岡、石井、原田、池田等の意思連絡については

一、被告人武内賢之に対する検察事務官の同年二月二日附聴取書中、同人の「福毛事件以来森岡が石井の宅に出入が多くなつた」旨の供述記載

一、被告人吉原健一に対する検察事察官の同年二月四日附聴取書中、同人の「始め石井としては岩野対森岡の喧嘩には、森岡とはやくざとしての兄弟分ではあるし、岩野は妹婿であるし、出来るなら深入りしたくないと思つていた様だが、福毛が岩野を刺した晩警察に呼ばれて行つた時刑事達から岩野の復讐の意図を聞いて、その様な状態であれば当方が黙つて居れば全滅する外はないから、当方から先手を打つてやらねばならぬといふ覚悟をした様で、二十四日と思ふが、石井が自分等に岩野方に対応する喧嘩の準備をせねばならぬと云つて居た」旨の供述記載

一、柴田フジエに対する司法警察吏巡査の聴取書中、同人の「一月二十三日午後一時頃原田末利、池田実夫婦、井原俊夫の四名が私方に来て、病気中の主人八木豊に挨拶し金を十万円借受けたいと云つていたが主人は之を断り、佐世保の清風館で借受ける様紹介していた。原田はその後二階で飮酒したが、やくざの話をしたり、又は何やら暗語を使用して密議をしている様に思つたが、原田は皆に、相手も若い者を集めているから俺達も若い者を集めねばいかぬ等話していた。

翌二十四日も朝早くから飮酒していたが、原田と池田は朝から晩十一時頃迄の間に五、六回佐世保に電話をかけ、話の内容は、自分も忙しかつたし又何か暗語の様な事を使用して話していたのでよく分らぬが、断片的に記憶しているのは「若い者を集めておけ」「やつてしまえ」「若松から若い者が集つとるから此方も全部集めろ」等の事を云つて居た」旨の供述記載

(リ)森岡及び石井の襲撃準備行為については

一、被告人川口千寿一に対する検事の同年一月三十一日附聴取書中、同人の「自分が城水組の小谷に連絡に行つたのは二十四日の事で、森岡が、岩野の方では子分を集めて仕かけてくるおそれがあるから、此方から先手を打つて愈々明日やるから、若い者を出してくれといふので、その通り花園町の飯場に行き小谷に話すと、時間は何時かといふので、其の点は石井方に来てくれと云ふと、承知したと返事した」旨の供述記載

一、柳井敬子に対する検事の同年二月二日附聴取書中、同人の「自分は一月二十日頃から足の治療の為黒川病院に通院しているが、一月二十四日の晩森岡浅治が来て玄関で、森岡の子分に刺された岩野といふ親分が黒川病院に入院中であるから、同人等が何と云つて居るか様子を探つて知らせてくれといふ依頼であつた」旨の供述記載

一、被告人渡辺安雄に対する検事の同年一月三十日附聴取書中、同人の「自分が佐世保に来たのは一月二十四日午後六時頃で、同行者は親分寺内忠雄、その身内北島、馬場、川崎、豊永、鳥井、吉川等合計十六名であつた。当地に来た目的は、佐世保から通知が来て事件が起つているとの事で、森岡の応援に来た。着いてから森岡方に行き、同人から御苦労であつたとの挨拶があつて夕食や風呂の馳走があり、九時過森岡の案内で石井方に行き二階で会つたが、その際石井、森岡、大田黒が居り、寺内、山田とが一緒に座り、私共はそれと離れ十六名が酒の御馳走になつて、四十分位飮食して帰つた。その際は石井から「皆さん御苦労であつた」と挨拶があり、もめ事の原因やら、岩野方の復讐の噂やらを話し「二、三日中にはしかけて来ると思うが、此方はそうなれば全滅になるから何か方法を講ぜねばならぬ」と申し、森岡も「今此方から仕かけて行くならば、岩野の方は人数が居らぬから少数でも良い」と云つた処、石井は「マア一晩待つて見様」といふ話をして居た」旨の供述記載

一、被告人原田末利の当公廷に於ける「崎戸に居る間に小島や石井から福毛が岩野を刺した事で喧嘩が起きそうだから直ぐ帰つて呉れ」と電話があり、「帰らぬ」と返事したところ、再び「帰らぬ様だつたら船を準備して迎えに来る」と小島から電話が来たので、二十五日朝佐世保に帰つて来たのだが、小島は「そんな事はかけぬ」と云ふので右の電話は石井が小島の名を使つてかけたものだと思つた」旨の供述

一、被告人吉田稔に灯する検事の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「一月二十三日福毛が岩野を刺したので、岩野の方では、森岡組に復讐すると同時に、その兄弟分である石井組、池田組の者も皆潰してしまう計画で三十名位若松から子分を呼んで日宇に待機させている、との情報が、石井組にも入つて来た事を、その翌日、自分は石井組で聞いた。その際石井組には、若い者が数名居たが、吉原、園田、米山と自分その他にも何人か居て、先方からしかけられる前に此方からしかけねばならぬといふ話も出て、要心のため私共はろくろく寝ずに、交替の様にして玄関でカシの棒を持つて警戒していた、その晩大牟田から森岡が呼んだといふ十数名の者も、二階に居た様である」旨の供述記載

(三)犯罪事実中

(イ)石井方に於ける集合の模様につき

一、今村一に対する検察事察官の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「二十五日午前十一時半頃石井方に行つてみると、石井の若い者力久、米山、吉田、永石、田村、園田、吉原、武内、八谷の九人が居り、更に大牟田からの来援者豊永外三、四名等全部で十六、七名が居り、入ると直ぐ石井が二階から降りて来て、若い者一同に対し「岩野が警察に検挙されたのは、小島一派の密告によるものだから、小島一派に復讐すると云つて、若松から八十名位を今夜八時で佐世保に来る様呼んで居り、その先発隊三十六名が日宇駅に来ることになつている」と話した、二階には池田と原田も来て居た」旨の供述記載

一、豊永昭二に対する検察事務官の同年一月二十九日附聴取中、同人の「翌二十五日午前十一時頃、私達大牟田方から来た八人は、石井方に食事に行つた処、石井方には同人、池田、原田、森岡の四人が居て「若松から三十六人の者が応援に来ているが、先方が来るのを待つか、先方に先に斬り込むか」といふ様な話をしていたのを、食事をしつつ聞いた」旨の供述記載

一、脇本政雄に対する検察事務官の同年二月一日附聴取書中、同人の「二十五日午前十一時頃石井方に行き飯を食い、若い者は外出し自分はそのまま残つてゐたが、その頃森岡、石井外三、四人の人が集つて、若松の連中の襲撃に対する対策に付て色々話していたが、小島に相談しようという事になり、同人を呼んで相談した処、小島は「自分は警察に喧嘩はせぬと約束してあるから出来るならその喧嘩はやるな」と云つてゐた。それから岩野の妾になつている石井の妹が来たので、親分四五人居る処で、病院の状況はどうかと聞いていたが、石井か森岡かが妹さんに「こちらは喧嘩をする気はなく、大牟田から来て貰つた人達も帰つて貰ふ事にしているから、病院に帰つたらそう云つて安心させて呉れ」といふ意味の事を云つて居た。それから間もなく殴り込みをしたのだから、今考えると右の話は、石井の妹を通じて病院の様子を探り、相手方の岩野、姫野を安心させて置いて、その不意を襲うつもりであつたと私は思つた」旨の供述記載

一、被告人吉原健一に対する検察事務官の同年二月三日附聴取書中、同人の「二十五日石井方で米山達と酒を飮み乍ら、喧嘩が今晩か明日の晩はあるに違いない、と話合をしたが、殴り込みに付ての詳しい話はして居らぬ。そんな話は池田方の最後の会合で決つたものと思う。尚又その席で、今晩六時に池田方の家に集る事も話に出たので、詳しい事は池田の家で話が出るものと思つていた」旨の供述記載

(ロ)池田方に集合すべき事の配下への連絡については

一、被告人渡辺安雄に対する検事の同年一月三十日附聴取書中、同人の「石井方を出て病院や床屋に行き、午後一時半頃池田方に行つた処、三、四時頃親分達が出て行つたがその際池田が「淋しかろうが待つていてくれ、六時には皆集ることになつているから」と云つた」旨の供述記載

一、被告人吉田稔に対する検事の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「一月二十五日午後五時頃石井方に帰つた時米山が「相手からしかけられるよりは此方から先に岩野の方に殴り込みをすることになつて、池田組、森岡組も話してあるから池田方にいけばよい」といふので池田方に行つた」旨の供述記載

一、被告人米山善郞に対する検事の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「私は別にかような事はしたいと最初から思つていた訳ではないが、健一から池田方に集る様に云われ、相手方を殺しに行く事が分つたので云々」との旨の供述記載

一、被告人木下秀男に対する検事の同年一月三十一日附聴取書中、同人の「一月二十五日頃石井組で其の若者である米山、吉田等の話しに、若松の者が三十六名集つて森岡組にしかけて来る情報があるから、こちらから先にしかける事になつたので、午後六時頃迄に池田組に集つてくれとの話であつた。それで自分は、大劇に行つた長井、松田を呼びに川口を使わし同人等が来たので、同様のことを同人等に伝えた」旨の供述記載

(ハ)池田方に於ける被告人等の出入について

一、被告人力久富男に対する検事の同年二月三日附聴取書中、同人の「石井方で池田から千円を貰いビール十本買つて、八谷、武内と共に池田方に行き、北野要、今村一等と共に飮んで居る内、池田が原田外四、五人の者と一緒に帰つて来た」旨の供述記載

一、前川ハツヨに対する検察事務官の同年二月七日附聴取中、同人の「二十五日午前九時頃崎戸から帰り、船酔の為頭痛がしたので、直ぐ勘太郞の部屋で寝ていたが、私が寝てから急に人の出入がはげしくなつた」旨の供述記載

(二)竹槍の用意について

一、牧照雄に対する検察事務官の同年二月八日附聴取書中、同人の「私は昨年十二月十六日から池田組の人夫として働いているが、一月二十五日は休日だつたので、三浦町の友人を訪ねるべく、池田方の前を正午頃通りかかつた時一寸立寄つた処多数の人が其処に居る様で中の様子は見えないが酒の臭いがしていた。私が玄関の横の勝手口から入ると、二十五、六の知らぬ男が「お前は池田の家の仕事をするものか、そんなら竹を買つて来て呉れ」と云つて金を百円くれたので、そこに居た人夫の水田と二人で、長さ三間位の竹五本を買つて帰つた」旨の供述記載

一、水田幸雄に対する検察事務官の同年二月七日附聴取書中、同人の「一月二十五日正午頃、牧が池田から竹を買つて来て竹槍を作る様に命ぜられ、同人から金を百円貰い栄町国際劇場の前に行つて竹を五本買い、午後一時頃帰宅して、玄関のコンクリートのタタキの上で牧と二人で竹槍を十本位仕上げ、之を玄関の内の入口から右側の壁に立てかけて置いた」旨の供述記載

一、被告人木下秀男に対する検事の一月三十一日附聴取書中、同人の「池田方の玄関土間には竹槍が十本位あつたが、それは其の昼過ぎ頃池田方の若い者や人夫が二、三人作つていたので、私も槍先を火に焼いて手伝つた」旨の供述記載

一、被告人渡辺安雄に対する検察事務官の同年一月三十一日附聴取書中、同人の「二十五日午後一時半頃、鳥井と吉川と三人で池田方に行つた時、玄関の外の右側の壁に、青竹が藁繩でくくつて二十本位立てかけてあつたが、全然竹槍式に割つてないのが大部分、ざつと刻んであるのが少しあつた。玄関右横の引戸から私達は屋内に入つたが、その時名前は知らぬ池田方の若い者らしいのが四、五人で、玄関のコスクリートのタタキの上で、鉈で竹槍を作り竹の先を削つているのを見た」旨の供述記載

一、前川ハツヨに対する検察事務官の同年二月七日附聴取書中、同人の「二十五日午前九時頃崎戸から帰り、船酔いで頭痛がするので寝ていたが、その内午後二時か三時頃玄関のタタキの処で水口さんと牧さんが何か作る模様で、コト〓と音がしていた。竹は主人が買わしたと思うが、よく知らない」旨の供述記載

(ホ)池田方における謀議の模様につき

一、被告人渡辺安雄に対する検事の同年一月三十日附聴取書中、同人の「午後六時前から各組の若い者が集り、六時頃親分の原田、森岡、池田、石井が帰り、大田黒も十分位遅れてやつて来て話が始まつたが、その時集まつた者は、玄関から入つて突き当りの壁付きの床の前に縦に置いてあつた大火鉢の廻りに森岡、原田、石井、大田黒、池田、山田等が座り、自分、鳥井、吉川、力久、川崎光雄、吉原、馬場、豊水等が坐り、今村、川崎政雄その他佐世保組の子分達が十五名位ギツシリ居り、玄関土間等にも居た。原田が先づ「日も暮れるから先方からしかける前にやらねばならぬから坐つてくれ、話をする」と一同を坐らせ、前に石井からも聞いた事を述べて「岩野の方から今夜辺り来るかも知れぬ、先方も日暮を待ち構えているかも知れぬから、此方から先に病院の方に殴り込みをかけねばらぬ。病院の方はせいぜい十人位に過ぎないだろう、それに岩野は胸を刺されて寝ているから、逃げも出来ないから、皆一度に行つても仕様がない、先づ五、六名一番に殴り込んで、失敗したら後の者が二回目に行く様にせよ」と云つて、第一回目の者を、各組から誰を出す、といつて、親分達が夫々一、二名宛名指しをしていた。それから親分達が、コップに酒をついで廻りの若い者に飮ませ、遠い者は子分同志でついで一杯宛飮んだが「勝ち戦の前に一杯行こう」と云つて勧められたのである。飮んだ後で原田の音頭により、三ツ宛三回拍手して「之で勝戦をした事になる」と云つた」旨の供述記載

一、被告人木下秀男に対する検事の同年一月三十一日附聴取書中、同人の「池田方に帰つた時は既に皆が集つて居り、火鉢の廻りに森岡、池田、原田等が居て、その前に大牟田の者がズラリと並び、他の組の者も一杯座つていて川口、松田も居たと思う。皆で十四、五名、玄関の土間にも四、五名いた。自分が来た時は話し合いが済んだ後の様で既にコップに酒がついであり、原田が「手を打とう」といつて音頭を取り、皆が三拍子を三回して座の酒を取つて飮んだが、之は殴り込みの最後の協議や別れの会であつたと思う。原田は尚「しくじるな」と激励して居り、皆が出る時も「引きあげる時はバラバラになるな」と云つていた様である」旨の供述記載。

一、被告人川口千寿一に対する検事の同年一月三十一日附聴取書中、同人の「自分は池田方に帰つて夕飯を食べている時、午後六時頃から池田の部屋で、池田、森岡、原田等の各親分が、子分と十数名で話し合をした様で、殴り込みの話があつたと思うが、自分が座敷に行つた時は、原田が「元気で行こう」と云い乍ら、拍手の音頭を取り、皆三回づつ三度拍手した上コツプの酒を飮んだ。自分には森岡が「酒一杯飮んで行け」と云い乍らついでくれたので飮んだが、森岡は身内の者には、皆障子の所迄来てついでやつていた。そして「相手は黒川病院の岩野と姫野等をやつつけて来い」と皆に云つていた」旨の供述記載

一、被告人吉原健一に対する検察事務官の同年二月四日附聴取書中、同人の「池田の家に行つて見ると、原田、森岡、池田、八谷、園田、田村、吉田や、大牟田の連中や、木下、長井、川口、力久等二十名以上の者が居つた様に思うが、自分は相当酔つてたのでその他の者は記憶せぬ。六畳の間は此等の人でぎつしりつまつて居り、自分は酒一升位ビール二十本位を運んだ。座敷の方では「殺されるよりこつちからやつてしまえ」「やれやれ」とか何とか気焔を上げて居たが、その内原田が音頭をとつて「勝ち戦」云々と云つて手を三つ宛三回打つて皆出て来た。自分は石井方で米山等と酒を飮む時池田方に集る事も知つたし、又石井から池田方に皆集ることになつていると聞いたのだから、此の時明かに今夜病院に殴り込みをかけることは知つていた。自分も行こうと思つていたし、又行けば殺したり殺されたり又怪我したり怪我されたりすることは覚悟の前であつた。自分は病院は相当数の若松の者が集つていると思つていた。尚殴り込みの対象としては先づ岩野と姫野をやつつけることであつた事も事実である」旨の供述記載

(ヘ)出発の際の模様につき

一、被告人木下秀男に対する検事の同年一月三十一日附聴取書中、同人の「出発の際原田が「引揚げる時はかたまつてバラ〓になるな」とか云つた様だが、皆池田方の玄関土間にあつた竹槍を取り、竹槍を持たぬ者は刺身疱丁や匕首を持つて出かけた。自分は会がすんでから長井、川口、松田等身内の者に対し「もうこうなつたらやらんば仕方ない」と話し、尚「此の事件の因は親父の森岡と岩野の喧嘩であるから、後れたら恥であるから先に行こう」といつて出かけた。石井組の米山も一緒になり、それに続いて他の組も来た」旨の供述記載

一、今村一に対する検察事務官の同年一月二十九日聴取書中、同人の「自分は岩野が佐世保のごた〓の原因だという事を森岡組の木下等から聞いて、以前から岩野のやり口に憤慨していたので自分が岩野を一番にやつつけてやろうと決心し、かねて匿し持つていた手工用ナイフを取り出し上衣の内ポケツトに入れ、地下足袋をはいて飛び出した処、既に殴り込み部隊は庖丁、ナイフ、竹槍等各自手に持つて、池田方表玄関前の道路上に勢揃いをしていた。その時勢揃いした者は、親分は池田、森岡、原田の三人で、石井組は園田、吉田、八谷、米山、田村、武内、森岡組は木下、長井、松田、川口、池田組は自分一人、大牟田組は豊永外数名その他で、総員二十名位と思うが判然覚えているのは前記の者丈けである」旨の供述記載

一、被告人米山善郞に対する検事の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「自分は吉原から六時に池田方に来てくれと聞いたので、岩野達をやつつける為に集るのだという事が分つたので、飮み終つてから自分一人夜店を一廻りし、下京交番の向側の金物屋で刃渡七、八寸位の庖丁を百七十五円で買い、石井方で夕食後庖丁を白いワイシヤツを破つて巻き、仕切小刀と一緒に腰にさして、午後七時頃池田方に行つた処、二十名位の若い者が道路に出て居り、竹槍など持ち出かけようとしていた。原田親分は池田方前の道路迄出て居り「卑怯な事をするな、成るべく相手の顔役をやつつけろ」と申していたが、大分酔つている様だつた。石井、森岡、池田の姿はみなかつたが、若い者がこんなに集つているので、池田方に来て居た事と思うた。自分も酒の酔がまだ残つて居り又普段石井方で他の若い者から「喧嘩一つしきらぬ」と云われていたので、やつてやろうといふ気になり、真先にいた森岡組の木下、長井等と一緒に出かけた。他の連中も親分の為に先手を打つて相手方を殺しに行くので、私も相手方をやつつけてやろうと思つていつたのである」旨の供述記載

一、被告人中尾仁に対する検事の同年三月十九日附聴取書中、同人の「一月二十四日夕刻、森岡組の川口が、私方の上川に「明日六時池田方に来てくれ」と云つていたので、自分は森岡に厄介になつていたので、もめ事があるのに知らぬ顔をしているわけにもいかず、翌二十五日午後六時頃池田方に行つた。勿論池田方に集れば岩野方と喧嘩をする事は解つていた。刃物は池田方にあるだろうと思い、何も持つていかなかつた。行つてみると玄関の中に六、七人位人が居り竹槍等を持つて居り、私はそこで茶椀二杯前原から貰い、八谷から切り出しナイフを貰い木下、長井、川口等と四、五人で先に出かけた」旨の供述記載

一、田村勇に対する検事の同年二月一日附聴取書中、同人の「二十五日の朝石井方で園田等から、黒川病院に岩野派の者が三十六名来ているから今日行かねばならぬかも知れぬという事を聞いた。行かねばならぬという事は勿論喧嘩しに行かねばならぬという意味である。昼寝をした後七時頃目がさめ、池田方に行き皆病院に行つたと云うので、皆が押しかけた事が分り、池田方炊事場にあつた竹の棒を持つて病院に行つた」旨の供述記載

(ト)騒擾及び住居侵入、殺人未遂乃至傷害の事実については

一、今村一に対する検察事務官の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「私は最初から、是非自分が岩野を殺してやろうと深く決心していたので、出発の時から先頭に立ち現場まで来たが、私の直ぐ後に豊永が続き、その後に十人位一団となつてついて来ていた。私は地下足袋の侭玄関の板の間に上り、廊下を病室の方に曲ろうとするとき、病室表側の窓硝子を割る音、人の騒ぐ声等が聞えたが、私は勢揃いの時池田の家で誰からともなく、岩野暢が二号室にいることを聞いたので、直ぐ二号室の障子を開け、廊下に立つた侭振り返つてみると、一号室に沢山の同志が入り、ガラスを破る音「アイタ」と言う声、竹槍で殴る音などが聞えて居た。私が二号室にに入ると、岩野暢が三号室から四号室に逃げようとするのを発見した。その時丁度豊永が後に居て拳銃を左手に持つて居たので、同人に対し「岩野を撃て」と云つたが、発砲しないので、私はカツとなつて自分の持つているナイフを豊永に渡し、豊永から拳銃を取り上げ、二号室の窓から表側に飛び出し四号室の窓際に行き、そこに立つていた岩野に対し「待て」と叫んで、その胸をねらつて引金を引いたが「カチツ」という音だけで発砲せず、其の内岩野は廊下の方に逃げてしまつので、傍らにいた豊永にナイフと取替えて拳銃を渡した。すると直ぐ「MPが来た、逃げろ」という声が聞えたので、木戸口から飛び出した」旨の供述記載

一、豊永昭二に対する検察事務官の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「黒川病院に行き、佐世保の者が二、三人玄関から上つたのでそれに引き続いて上つたところ、今村は直ぐ二号室に行き障子を開けて立止り、私に「こつち〓」というので今村の脇に行つた処、今村は私に「拳銃で射て」といつたけれども射たないでいると、今村が私に「射たぬなら拳銃を俺にやれ、俺が射つ」といつて自分の持つている刺身庖丁を私に渡し、私の拳銃を取り、その部屋を通り拔けて窓を越して庭に出で、窓越しに拳銃を岩野の方に向けて引金を引いたが「カチツ」という音がしたのみで発砲はしなかつた。其際、誰かが「逃げろ〓」というので門の外に逃げ出した」旨の供述記載

一、被告人中尾仁に対する検事の同年三月十九日附聴取書中、同人の「池田方を出発して黒川病院に到り、門の処で竹槍は捨てて玄関に入り、廊下に上つて一、二号室前に行つたところ仲間が一人位居たが、岩野方の古賀が出て来たので、私はイキナリ切出しナイフで古賀の左脇腹か尻あたりを一つき突いたが、その時一号室に居た岩野方の仲間が立上るのが見えたので、私はさつと引返して逃げた」旨の供述記載

一、被告人米山善郞に対する検事の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「自分は真先に居た森岡組の木下等と一緒に、山伝いに黒川病院に到り、暫く様子をうかがつていたが誰も庭の方に行かないので、普段なめられている反揆心もあり、真先に玄関に行くと、後から仲間がついて来た。玄関のガラス戸を開けるなり廊下に上り、右手一号室前を過ぎ二号室迄行こうとした時、二号室の中から姫野(古賀登を指す)と他に一人出て来たので、姫野と廊下で向き合い、その時は仲間の者も後につめかけて来ていたので、引く訳には行かず、相手を殺してやろうと思い、右手で腰にさしていた刺身庖丁を抜き取るや、姫野の背に左手を廻し顎を姫野の胸につけて、右手の庖丁でその右腹を刺し、更に胸の方を突いた。右腹を突いた時は手答えがあつたが、胸の辺の時は手答えがない様に思つた。その時同時に硝子戸諸共中庭に倒れ、自分も一緒に中庭に倒れたが、その時仲間がどつと寄せて来た様に思つた。自分は倒れた時背中を石か何かにぶつつけたようで、其のまま気を失い、気がついて起き上つた時皆が引き上げる様に外の方に出て居たので、自分も外に出て引き上げた」旨の供述記載

一、被告人川崎政夫に対する検察事務官の同年二月五日附聴取書中、同人の「私は竹槍を持つて皆と共に池田方を出発し、黒川病院の前に来て、一緒に病院の木戸門から邸内に入り玄関前に来た所、柄に赤布を巻いた刃渡り七、八寸位の刺身庖丁を持つた、佐世保の若い者と思われる人が居たので「俺がやるからそれを貸せ」と云つて庖丁を取り、竹槍はすてて、玄関から廊下に飛び上り、右手一号室に飛び込んだとみるや、其処に居た若松の若い者三、四人中、真中辺りに居た男を、右庖丁で一刺しに刺した。自分が何といい、相手が何と云つたか夢中でよく憶えていない。その頃隣の部屋や廊下では「あつ痛い」とか「此の野郞」とかいう声や、ドタバタ人の走り廻る音がしていた。自分は眼が悪いので相手方の人相や刺した部位等さつぱり記憶せぬが、花松組の一人を刺した事は間違ない。相手を刺した直後「引き上げろ」と云うので玄関から表へ出て引き上げた」旨の供述記載

一、被告人川口千寿一に対する検事の同年三月十九日附聴取書中、同人の「私は一月二十五日黒川病院襲撃の帰途、親和木工所附近で中尾仁にあい、一緒に夜店に出る途中中尾は誰かを刺したと云つて居た」旨の供述記載

一、被告人吉原健一に対する検察事務官の同年二月四日附聴取書中、同人の「自分は石井と共に後から状勢を見に木工所に行つた処、丁度殴り込みの連中が引き上げて来る処であつたが、手に手に各自竹槍その他の兇器を持つて居て、風呂場で米山が「姫野は俺がやつた」といい、先の方が一寸折れて柄の元まで血のついた刺身庖丁を私に見せたので「死んだか」と聞くと「死んだと思う」と云つて居り、又竹槍でついたとか叩いたとか云つているのも居たが、誰が誰をどうしたのか判然記憶はない」旨の供述記載

一、岩野暢に対する検事の同年一月二十七日附聴取書中、同人の「一月二十五日の晩黒川病院に入院中、隣の一号室で弟甚太と誰かが言い争う声がしたと思うと、廊下の障子が一尺余開いて石井の若者が現れ見舞にでも来たのかと思つた処、ポケツトから拳銃を出して差し向けたので、驚いて起き上る途端に、表の窓硝子の割れる音がして其処からも別人が拳銃を差し出し「岩野は何処にいるか」と呼び、竹槍の者も二、三人居たので、私は座蒲団をもつて壁際に身を寄せて居た。隣りの一号室でも「何を」とか「畜生」とか叫び声が騒しく聞えていた」旨の供述記載

一、古賀登に対する検事の同年一月二十七日附聴取書中、同人の「一月二十五日の晩、私は黒川病院の岩野暢の病室に居た処、夕食後七時半頃、玄関でバタ〓音がし、隣の若者の部屋でも騒しくなつたので、廊下の障子を開けて出た際、隣室では硝子の割れる音がし、廊下には数名の若者が出たり入つたりして竹槍を持つて居り、廊下の突当りの玄関の間にも七、八名内庭にも数名立つて、竹槍で廊下の硝子戸を割つたり、窓を引き倒したり騒々しくしているので私は「皆待て」と制止した処「あれが姫田だ刺せ」という叫び声が聞え、中庭から背の高い男が私の右脇腹を刃物で一回刺し、奪いとろうとする時竹槍を持つた男から右手を強く打たれ、三、四人の者から裏庭に引落され、坊主頭の小柄の男からも右の臀部を一刺し突かれた。その後数人から竹棒やステツキなどで、腰や肩を乱打されて人事不正になつた」旨の供述記載

一、河野重臣に対する検事の同年二月四日附聴取書中同人の「私は刺された時壁の方に顏をそむけたので刺した男を見なかつたが川崎政夫以外には庖丁、匕首等の刃物を持つている男は私のそばには居なかつたので川崎から刺されたものに間違ないと思う」旨の供述記載

一、森永熊雄に対する検事の同年二月二日附聴取書中、同人の「一月二十五日午後七時五十分頃治療室で食事をしようとしている時、ドヤ〓と土足で数人の人が玄関から廊下に上る足音が聞えたので、妻と一所に廊下に出てみると、十二、三人の人間が竹槍など持つて一、二号病室の前あたりに入つて居り、二号室あたりは中をのぞいている者もあるので、入院中の岩野等を襲いに来たのだと直感した。私と妻は「ココは病院だから」と一応制止した処、一番後ろに居る男がふり向きもせず、「病院も何もあるものか」という声がし、二号室前あたりの硝子戸が内庭に倒されたので、ここに居ては巻きぞえを食うと思い、妻と二人黒川家の方に行つた。自分が見たのは後ろ姿丈けであつたので、どんな顏の人か知らず、表に人が来ていたかどうかも知らなかつた。被害としては硝子戸の硝子が十五、六枚割れ、一号室の畳に血がこびりついていた」旨の供述記載被告人木下秀男に対する検事の同年一月三十一日附聴取書中、同人の「玄関から同志が入る時、自分は岩野が二号室にいることを聞いていたので、其の窓の前に行くと、岩野が裏奥の方に逃げる姿を見たので、私は裏の方に廻つたが居なかつたので、又表庭に帰り、寺の下の崖の下に待ち構えて出て来るのを待つていた」旨の供述記載

一、被告人園田初一(以下略)

一、被告人力久富男に対する検事の同年二月三日附聴取書中、同人の「自分は池田方で飮食した後、吉原健一が見えないので、一人先に押しかけたのではないかと思ひ「俺は行くぞ」と云つて池田方を出て、数人と一緒に病院に到り、東本願寺入口坂道の脇にある門から中に二、三歩入り、健一を呼んで居た。病院の中には仲間の者が入つて、硝子戸を壊したりしていた」旨の供述記載

一、被告人八谷惣一(以下略)

一、被告人武内賢之(以下略)

一、被告人松田満(以下略)

一、被告人長井末広に対する検事の同年一月二十九日附聴取書中、同人の「私は竹槍を取つて池田方を出てから木下が「先に行こう」と云うので、川口、松田及び中尾等と一緒になり、米山も加えて先に出発し、東本願寺の方から下に下つた所、石井組や大牟田組の者等が既に集つて居り、病院の中の様子を伺つて米山が先頭になり、十人位が一緒に、玄関を引き開けてどつと屋内に侵入し、硝子窓が割れたり、倒れたりする音がして私が廊下に行つた時は、裏庭に人が倒れて居り、裏庭から見ると、病室の中で四、五人同志が入つて竹槍で相手を叩いたり等していた。私は病室を廻つて表庭に出ていた処「引揚げろ」というので、元来た道を木工所の方に逃げた」旨の供述記載

一、被告人吉田稔(以下略)

一、田村勇に対する(以下略)

一、押収してある竹槍(証第五乃至第九号、第十八号及び第二十号)手工用小刀(証第一、第二、第十、第十二ノ一、二及び第十七号)庖丁(証第三、第四、第十三、第十六ノ一、二号)拳銃(証第十四号)及び実弾(証第十五号)等の各存在

(チ)各被害者の蒙つた創傷の部位程度については

一、古賀登、岩野甚太、河野重臣、中西明に対する医師黒川鷹揚の各診断書中判示に照応する各記載

を綜合して、夫々之を認めることが出来るから、判示事実は全てその証明が十分である。

(前科その他)

被告人森岡浅治は昭和十四年二月九日山口地方裁判所下関支部に於て常習累犯窃盜罪により懲役四年に処せられ、その頃右刑に服役して同十八年二月六日出所した者、被告人池田実は昭和十五年八月四日横浜地方裁判所に於て傷害致死罪により徴役三年に処せられ、その頃右刑の執行を終え同十八年八月頃出所した者、被告人力久富男は昭和二十一年三月佐世保区裁判所に於て窃盜罪により懲役八月に処せられ同年十一月二十三日右刑の執行を終えて出所した者、以上の事実中、森岡浅治の前科の事実は身上取調調書及び前科取調調書と題する各書面中判示の様な記載があるので之を認め、尓余の各被告人の前科の事実は当該被告人の当公廷における各自関係部分につき判示と同趣旨の各供述によつて之を認めることが出来るから全てその証明が十分である。

尚被告人原田末利は昭和十七年七月七日長崎控訴院に於て殺人、住居侵入、逃走罪により懲役十年に処せられ、更に同年同月二十一日長崎区裁判所に於て逃走罪により懲役一年に処せられ、右逃走罪の刑は昭和二十一年勅令第五百十二号減刑令により徴役六月二十二日に変更されたもので、同被告人は右両刑確定以来服役し昭和二十二年一月八日仮出獄により出所した者、以上の各事実は各当該被告人の当公判廷に於ける各自関係部分につき判示同旨の各供述により明瞭である。

(法律の適用)

法律によれば、被告人等の判示所為中、全被告人の各住居侵入の点は各刑法第百三十条第六十条に、各数個の殺人未遂の点は各同法第百九十九条第二百三条第六十条に、傷害の点は各同法第二百四条第六十条に、被告人森岡浅治、同原田末利、同池田実の各騒擾(首魁)の点は各同法第百六条第一号に、被告人米山善部、同中尾仁、同川崎政夫の各騒擾(率先助勢)の点は各同法第百六条第二号に、被告人木下秀男、同園田初一、同力久富男、同松田満、同長井末広、同吉田稔、同八谷惣一、同武内賢之、同田村勇の各騒擾(附和随行)の点は各同法第百六条第三号に各該当する処、被告人吉原健一、同川口千寿一、同渡辺安雄、同鳥井政人、同馬場昭敏等五名に於ける各人の右住居侵入は各自の右数個の殺人未遂及び傷害の各所為の手段行為であるから、右被告人五名に対し、その右各牽連関係につき同法第五十四条第一項後段第十条を適用し、右五名を除く尓余の被告人等十五名における各人の右住居侵入は各自の右数個の殺人未遂及び傷害の手段行為であり、且つ右各人の前記騒擾と右住居侵入、各殺人未遂及び傷害とは一個の行為が同時に数個の罪名に触れる場合に相当するので、右被告人十五名に対し、その右各牽連関係及び相像的競合関係につき、夫々同法第五十四条第一項後段、同前段、第十条を同時に適用して、以上各被告人とも結局最も犯情の重い古賀登に対する殺人未遂の各一罪とし、その所定刑中孰れも有期懲役刑を選択するが、被告人森岡浅治、同池田実、同力久富男、同木下秀男、同川崎政夫には各前示前科があるので、更に右被告人に対しては、孰れも同法第五十六条第一項第五十七条を適用し、同法第十四条の制限に従つて各再犯の加重を為し、被告人園田初一、同力久富男、同川口千寿一、同八谷惣一、同吉田稔、同長井末広、同松田満、同武内賢之、同田村勇、同渡辺安雄、同鳥井政一、及び同馬場昭敏に対しては、同法第四十三条本文第六十八条第三号に則つて各未遂減軽を為し、同武内賢之、同田村勇、同渡辺安雄、同鳥井政人、及び同馬場昭敏に対しては孰れも犯罪の情状憫諒すべきものがあるので更に同法第六十六条第六十七条第七十一条第六十八条第三号に則つて各酌量減軽を施し、尚被告人園田初一は少年法第一条に所謂る少年であるから、更に少年法第八条第一項本文を適用し、叙上各被告人等に対して算定した各刑期の範囲内で被告人等を夫々主文第一項記載の刑に量定処断するが、内被告人渡辺安雄、同鳥井政人及び同馬場昭敏の三名には刑の執行を猶予すべき情状があるものと認め、各同法第二十五条に従い、此の判決の確定した日から孰れも二年間右各刑の執行を猶予すべく、尚同法第二十一条に則つて、右執行を猶予した三名及び被告人池田実、同中尾仁を除く尓余の各被告人に対しては未決勾留日数中各百二十日を、被告人池田実に対しては同九十日を、同中尾仁に対しては同七十日を右各本刑に算入し、押収に係る竹槍八本(証第五乃至第九第十八及び第二十号)手工用小刀六本(証第一、第二、第十、第十二ノ一及び二、第十七号)及び庖丁六本(証第三、第四、第十三、第十六ノ一及び二号)の各兇器は孰れも被告人等が判示殺人未遂、傷害及び騒擾の各犯罪行為の用に供し又は供せんとした物で、被告人等以外の者の所有に属せぬ物であるから、同法第十九条第一項第二号第二項に則つて全て之を没収することとする。

尚被告人吉原健一、同川口千寿一、同渡辺安雄、同鳥井政人、同馬場昭敏に対する各騒擾の公訴事実については、被告人等が前記騒擾の協議に与つたか又は之を聞知諒承して意思相通じた上、同市光月町小島組、親和木工所又は黒川医院附近まで同行した事実は一件記録の各証拠により之を認めることが出来るが、右の事実のみでは騒擾を為したという事は出来ず、その他騒擾の現場において、その実行に着手した事実を認めるに足る証拠もないので、右騒擾の各公訴事実は孰れも無罪であるが、右事実は前記各認定事実と想像的競合の関係にあるものとして起訴されたものと認むべきであるから特に主文において無罪の言渡をしない。

次に被告人田中政次に対する公訴事実の要旨は

同被告人は昭和二十三年一月二十五日午後七時半頃、被告人森岡浅治外二十数名と共謀の上、前記黒川医院における前記騒擾、住居侵入、殺人未遂及び傷害の各行為に参加し、黒川医院附近まで同行追随して附和随行を為したものである。というのであるが、同被告人が全ての相被告人等の出発後、事情を聞知してその後を追つた事実は一件記録に徴して之を認め得るけれども、その他同人が相被告人等と前記各犯罪行為を共謀したり又は騒擾をした事実を認めるに足る何らの証拠もなく、又単独で前記各所為を為した証拠も全然存しないので、刑事訴訟法第三百六十二条に従い、犯罪の証明がないものとして無罪の言渡を為すべきものとする。

それで主文の通り判決する。(昭和二三年七月八日長崎地方裁判所佐世保支部)

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